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ヒアリング及びフィールドワークの内容

阿賀野患者会の方々 (事務局長 酢山省三さん)の話

「仲良しクラブでスタートしたんだよね。裁判するために集まったわけじゃないんだよね」という阿賀野患者会事務局長の酢山省三さんの言葉。第4次訴訟原告の阿賀野患者会の5人の患者さんとともに、とうとうと水の流れる中流域の阿賀野川を眺めた後、場所を移してお話を伺うことに。みな、当たり前のように川と共に暮らし、魚を食べて生活してきた人々でした。

権瓶十蔵さん(74歳)

「まさか毒の魚を食べるなんて…。阿賀野川は我々を育ててくれる恵みの川だったんです。役場に勤めたこともあり水俣かどうかということも言えなかった。風呂に入るのも温度を感じない。足のしびれ、口もこわばってくる。患者会に加わるきっかけは、坂井さんに手帳申請を勧められて、それからです。」

坂井正男さん(80歳)

「実は昭和42年にね、水俣病申請したんですよ私…。そしたら棄却されましてね。平成7年に政治解決があって、症状はあるからもう1回申請してみようと。それで直接県の公害課の方へ電話したんですよ。そしたらね、今水俣病申請してもなかなか認定されないと。それよりも、保険手帳を発行するから、各市町村窓口に行ってそれに申請したらどうだと言われて…。で、申請してね、その時偶然権瓶さんと一緒だったから手帳だけでも申請して。酢山さんのところに世話になってます。」

権瓶義男さん(73歳)

「ちょっとくらいどこか痛くても誰にも訴えないで我慢します。で、我慢しきれなくなったら病院かかろうかなってというのは今でもそう…。15、6年前ぐらいから、耳が遠くなり、同時に目がおかしい。視野が狭くなるんです。手がしびれたり、こむら返りもします。趣味で碁をやるも、石を持って置こうとすると震えで盤面の石をばらばらにしてしまう。検診を受けると、『あなたは典型的な水俣病です』と言われる。昭和電工、国にすごい怒りを持っているんです。彼らに頭下げさせるということは世界でも同じことをさせないというのにつながるんじゃないかと。だから闘いって、ずっと闘いなんじゃないかって…。」

西潟忠太さん(77歳)

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「魚を35年間捕っていました。漁法は釣り、延縄漁、投網があるが、事業で30人くらい使って投網をやっていました。投網は夜中にやる。川に住んでいる魚は何でも捕れた。漁で川に腰まで浸かっていたもんだから、帰って寝ようと思ったら体がほてってね…。それが長く続くもんだから神経痛という風に先生に言われていたもんですよね。」

白倉静枝さん(83歳)

「民生委員をやっていましたが平成10年で退き、平成20年まで相談員をやってきました。人にはそんなことはこんな人に相談した方がいいよって、権限は持たないがアドバイス的なことをしてきたわけです。しかし、さあ自分のこととなると、立場上、自分のことは口に出されなかったです。知り合いから坂井さんを紹介してもらって、阿賀野患者会に。とてもありがたく思ってます。以前は何が原因かわからず、めまいと吐き気と耳鳴りに悩まされまして…。」

質疑応答(抜粋)

…患者会を作ろうとしたきっかけは、坂井さんのような人の思いからですか。

「事務局の方で環を広げようとしてくれたことが要因としてあります」(坂井)

「患者さんの掘り起こしのために。患者会自らの会が必要だから」(酢山)

…患者会の活動は、どのような内容ですか。

「患者さんの要求を実現するための会で、患者さんが要求しているのは大きく二つで、水俣病患者として認め、加害者が被害者に謝罪し、補償をきちんと払うという“救済”をしっかりすることと、原告以外も含めた全被害者の救済による公害の全面解決です。」(酢山)

「我々のやっていることは、結果的に全世界の環境汚染の原因のカットにつながる。この会はすばらしいことをしていると思うんです、阿賀野患者会っていうのは。本当に自分の利害だけでは動いてないんです。こんな組織あまりないですよ。」(権瓶義男)

…被害者の会として他に和解において加害者に要求したいものはありますか。

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「原告の最高齢は92歳なので被害者の救済が先決です。3本柱があって、水俣病の被害者の掘り起こしのための健康調査と、水俣病以外の人も使える介護施設を作る、慰霊碑の建立と慰霊祭の開催です。」(酢山)

最後に権瓶義男さんが加害者への思いを語りました。

「考えてみると、彼らに我々の人生を支配された、とられたって感じがする、それは10年、20年という人もいれば、1、2年という人もいる。水俣病になって体の自由がなくなったってことは、彼らに人生奪われたってことなんだ。」ーそれは“怒り”を冷静に語るという言葉が当てはまるようでした。

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