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ヒアリングの内容

髙木勲寛氏 (イタイイタイ病対策協議会会長)の話

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イタイイタイ病対策協議会会長の髙木さんから、イタイイタイ病に関する概要や地域の状況を伺いました。髙木さんは初めに、「私たちは長年企業と闘ってきた。しかし今は緊張感を持った信頼関係を保っている。神岡鉱業に行かれる方はそのことを特に覚えておいてください。」と静かに話されました。

そして、この清流会館が患者やその遺族・家族が資金を出し合って、患者救済、土壌汚染の復元、立ち入り調査権のある公害防止協定―の拠点として昭和51年に建てられたことを紹介され、「もし患者が世帯主である戸主(男性)であったら、もっと早くこの病気を問題視して対峙していただろうし、こんなに隅に追いやられるような扱いを受けなかった。」と農・漁業被害に関する補償は大正時代から存在していたにも関わらず、被害者の大半が女性ゆえに業病・祟りと虐げられた扱いを受けた背景を話されました。

また、完全勝訴に至った裁判の背景として、イタイイタイ病対策協議会初代会長の小松義久さんの手腕や、「どうせやるのであれば、弁護士として一生に一度くらいは無報酬で人を助けることに専念せよ。」との言葉に後押され弁護団長を務められた正力喜之助弁護士のエピソード等を紹介され、強力なリーダーシップと地域の結束力、300名に及ぶ弁護団の力等の結実により公害裁判の敗北の歴史を塗り替えられたのだと、語調を強くされました。

さらに、復元事業は被害団体の今の運動の中で重要な活動の一つであることを強調されつつ、平成23年に終了する復元事業の背景に「日本一安全な米※(国の基準値の100倍以上を設定)が取れるところになったんですけども…農村の原風景がなくなったというのは、ひとつ残念です。」と、復元事業により大きな田圃へと区画整備されたことや、地権者の世代交代により復元しても手つかずで荒廃した光景があることへの複雑な心境を吐露されました。

最後に「立入調査の最初の頃の思い出と言いましたら、調査の後の神岡との直接対決(質疑応答)です。今は、ある意味では和やかな感じがありますけども、当初は『社長呼んでこい、社長出てくるまで帰らんぞ』とやっとったわけです。」と、公害防止協定書を生した三井神岡鉱山との歩みを紹介されました。現在もダムの底にはカドミウム沈殿が調査により明らかになっており、住民の立入調査は、再汚染させないためにも続けるべきだという意見が多数でありながら、高齢化・担い手不足の農家の人々にとっては負担が大きく、復元事業完了後の立入調査の必要性を、どのように若い世代へ伝えて行くのか難しい現状も話されました。

今後に向けては、語り部の養成も含め、世界に誇れる公立資料館の設立を強く主張していると話されました。国内のみならず世界各国から見学者があるにも関わらず資料不足、スタッフ不足等の理由から十分に対応できていない現状や、四大公害でありながら発信するツール・方法を持っていないのは問題であるとの課題認識から、公立の資料館設立のために、東奔西走されている様子を伺い知ることができました。

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